初めまして。私は大阪府松原市を中心にアレルギーっ子とそのご家族を支援させて頂いている
アレルギーっ子親の会「はすの会」の下山まきえと申します。
(当会は2004年に立ち上げられたアレルギー親の会『蓮の会』を2009年に下山が引き継ぎ、会名もアレルギーっ子親の会「はすの会」とし活動しております)
私自身は3人の子どもを持つ親であり、今年23歳になる長男は5P−症候群という染色体異常を持ち、
生まれつき重度の重複障がいで日常生活のすべてにおいて介護や在宅酸素などが必要です。
そして次男(20歳)と長女(13歳)は共に生後間もない頃からアトピー性皮膚炎を発症し、その後食物アレルギー、喘息(次男のみ)、アレルギー性鼻炎・結膜炎などを既往歴に持つ重度のアレルギー疾患者です。
アレルギー支援ネットワークさんとは、数年前から当会が地元でのアレルギー啓発活動行う際に
ヒヤリはっと事例集を送って頂いたり、「西日本アレルギー防災対策会議」(現:レスキューアレルギー)や京都で開催されていたアレルギー大学等、毎回 支援ネットワークのみなさんにお会いするたび、学びや気づきがあり、私たちの活動に刺戟を与えて下さっています。
初めて参加させて頂いた京都での防災会議。
もしあの会議に参加しなければ私自身今でも「防災」から目をそらせていたことだと思います。
なぜなら私の中で「防災=何をしたらいいのかわからない=漠然とした不安が一杯で怖い」そんな思いを持っていたからです。どうして自分や家族を守るための防災に怖いという思いをもっていたかというと、私の住む松原市は今まで大きな災害(震災)に見舞われることなく今に至ります。あの阪神淡路大震災の時でさえ甚大な被害に遭うことはありませんでした。
でも私自身は阪神淡路大震災時、入院中の長男、私自身が高熱の為 生後3か月の次男(すでにアトピー性皮膚炎を発症)と一緒ではなく、あの暗闇の中から響きわたるような地鳴りと共に、地面が揺れるなか、その時に子ども達と一緒で無い事の恐怖、その後子ども達の安否の確認をとれるまでの恐怖で、心も体も動きが取れませんでした。
その後、長男も退院し一緒に暮らせるようになった頃、避難訓練をしようと必要な物を準備したのですが、必要最低限の子どもの物と酸素を担ぎながら車いすを押し、小さな次男の手をひき・・・到底、私一人では移動する事すら無理でした。そんな自分の無力感に押しつぶされそうになった事をよく覚えています。
そのころから、どうしたらこの子たちを守れるのかが分からず、防災のことについて目を背けようとしていたのかも知れません。
ただ行政の備蓄品に関しては、阪神淡路大震災後からはアレルギー配慮されたものを用意して頂けるようにお願いはしておりました。
その後も、日本各地いたるところで災害は起き、そのつど背中に冷や水を浴びせられたかのような気持ちになりつつも、まだ目を背けようとしていました。
しかしあの東日本大震災が起こり、当時の様子や現地のアレルギー疾患を持つ親御さんの思いや体験談を様々なツールや防災会議を通じ知ることで、もう目を背けるのはやめようと思い、改めて自分たちで出来る事と必要な事、その範囲は何かと考えました。
まずは生きる事。生き延びる事。そして避難先で命の危険を回避できる生活を営むこと。
そして出来るだけ、こども自身が自身のアレルギー疾患を正しく理解し(年齢にもよるとは思いますが)、そして疾患を持つことを出来るだけ周りの人にも知ってもらう事で、万が一 親がいない状態でも子ども達が命の危険にさらされない事。
その為には一体私たちに何が出来るのだろうか?そして私たちが住む地域では何が必要だろうか?
防災への関心が他人ごとのようなこの地域で何が出来るのだろうか?
そして出した答えが、「手の届く範囲からアレルギー×防災について知って頂こう。そして少しずつでも周囲を巻き込みながら、その活動を継続させることで自助・共助・公助の向上につなげよう」でした。
そんな思いを形にするため、松原市からの助成を受け「アレルギーがあっても安心〜みんなで学ぶ防災教室〜」を2回の連続講座で開催しました。
第1回目は2月8日(日)に開催した「ゲームで学ぼう!考えよう!〜私たちの避難所〜」です。
第2回目は2月21日(土)に開催した「防災備蓄で親子クッキング」(アレルギー対応)です。
次回以降、2回分の講座内容を順に紹介させていただきます。活動事例としてご参考になれば幸いです。
アレルギーっ子親の会「はすの会」
下山 まきえ
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